日本軍による海外諸国への空爆

中国本土無差別爆撃

 

 第一次世界大戦のときの日本は連合国側でドイツと戦いました。その時ドイツの租借地だった中国の青島(チンタオ)の街を日本軍は1914年(大正3年)9月5日~11月7日にかけて49回にわたって空襲を敢行しました。9月5日、青島港内の兵営や電信所に爆弾を手で投下しましたが、これが日本軍による他国に対する最初の空襲となりました。

 

 その後日本軍は、当時日本の植民地支配下に置かれていた台湾の先住諸民族の居住する山岳地帯を1917年8月に11回も爆撃しています。また、1930年10月7日、抗日勢力が武力蜂起した「霧社事件」のとき、蜂起した先住民族の所属する部落を2ヶ月に渡って空襲、爆弾とガス弾(青酸及び催涙弾)を投下して500~1000人の死者を出しました。

 

 1931(昭和16年)10月8日、関東軍の爆撃機12機が、遼寧省錦州を空襲しました(錦州爆撃)。各機に25kg爆弾を5、6個載せて出撃し計75個投下しています。関東軍は「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告したのですが、国際法上は予防措置は自衛権の範囲とはいえ、のちに国際連盟により派遣されたリットン調査団は自衛の範囲とは呼びがたいと結論しました。

 

 1934年7月7日、溝橋事件をきっかけとして日中戦争が勃発しますが、その時日本軍は錦州を爆撃、上海・杭州・南京・広東・武漢・九江・孝感・蘭州・徐州・揚州・桂林・柳州・成都・洛陽・西安・南昌・宝鶏・南陽などの中国の主要都市を爆撃、そのような中国都市爆撃の頂点として1935年(昭和10年)5月に重慶の無差別爆撃を敢行しました。

 

 1937年8月15日から12月の南京陥落までの4か月間に、日本陸海軍は南京市を空襲、市民の間にかなりの死傷者が出ています。当時の空襲の激しさを、当時の上海に在住していた金陵神学院のヒュバート・ソン牧師は述べ120回以上、ロバート・ウイルソン医師は111回とその日記に記しています。

 

 1938年2月から1943年4月までの間、重慶爆撃のために台湾の基地を飛び立った日本の飛行機は、述べ10,000機、投下爆弾2万1593発と記録されています(日本軍の記録)、中国側のまとめでは重慶の空襲は218回に及び、空襲による直接死者だけで1万1885人に上るとされています。また負傷者1万4100人、焼失家屋1万7608戸と発表されています。

 

 1937年(昭和12年)4月26日にドイツ空軍がスペイン内戦下で実行したゲルニカ爆撃が本格的に焼夷弾を使用した世界最初の空襲とされ、軍事目標と都市市街地を区別せず爆撃する都市無差別爆撃の史上最初の空襲と言われていますが、重慶爆撃はそれに比べてけた違いの規模の連続無差別爆撃だったのです。これが第2次世界大戦においての航空機による焦土作戦の幕開けとなりました。ヨーロッパでは、イギリスとドイツの無差別爆撃として展開し、やがて日本全土の主要都市が無差別爆撃による焦土作戦の渦に巻き込まれて、日本の100をこす都市が灰燼に帰すという悲惨な結果をまねくことになりました。

 

日本軍の真珠湾攻撃とアメリカ本土爆撃

 

 1941年(昭和16年)12月8日、アメリカ軍の海軍基地や航空施設の集積するハワイ・オアフ島は、太平洋の制海権をねらう日本軍にとって最大の脅威となっていました。日本軍は太平洋戦争開始の直前に、ハワイ・オアフ島のPearl Harbor(真珠湾)の海軍基地を攻撃しアメリカ海軍に大打撃をあたえる計画を立て、それを実行しました。それによりアメリカ側は、真珠湾に停泊していた軍艦・戦艦4隻を含め5隻が沈没し、ほかに13隻が大きな損傷を受けることになりました。航空機も347機が破壊されるなどの大きな損害を出し、人的損害も将兵の死者2,345名・負傷者1,347名、民間人も犠牲者101名・負傷者399名にのぼりました。この時の日本軍の損害は航空機29機、戦死者54名でした。

 

 また、日本海軍の巡潜乙型潜水艦(じゅんせんおつがたせんすいかん)計9隻は、アメリカの西海岸で12月20日頃から通商破壊戦を展開したのです。西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船5隻を撃沈、5隻を大破させるなど、損害の総トン数は6万4,669トンに上りました。さらに昭和17年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦が、カルフォルニア州セントバーバラ市にあるエルウッド石油製油所へ砲撃を行い、成功させました。これらの日本軍による一連のアメリカ本土への先制攻撃で市民は大混乱となり、初めての本土への攻撃はアメリカ政府にも大きな衝撃と恐怖を与えることとなりました。ルーズベルト大統領は、日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、ロッキー山脈で日本軍の侵攻を阻止しようとする作戦を立てました。同時に日系アメリカ人の強制収容を行うことになりました。(この強制収容は、戦後に人種差別政策だと批判され、賠償を支払うことになった)

 

 さらに、アメリカ政府は日本軍の本土攻撃に関してマスコミの報道規制を敷いて、国民の動揺と厭戦気分を防ぐために躍起となりましたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が続き、ロサンゼルスでは自国の飛行機を日本軍の空襲と誤認し高射砲を発射して、その結果市民に6人の死者を出すなど(ロスアンジェルスの戦い)、パニックを引き起こすことになったのです。アメリカにとってこの事件が、いかに大きな衝撃だったかが分かります。

 

日本軍によるオーストラリア港湾攻撃と都市空襲

 

 1942年2月から1943年11月までの間に、日本軍はオーストラリア本土や港湾地域を少なくとも97回に渡って航空機による攻撃を行っています。1942年2月19日朝、オーストラリアの港湾都市ダーウィンを242機の艦載機で攻撃しました。日本の航空母艦4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)は、オーストラリアの北西部にあるチモール海から計188機の艦載機を発進させ、ダーウィンの港湾施設に大きな被害を与え停泊中だった9隻の船舶を沈没させました。これにより、オーストラリアの主要基地であるダーウィンは海軍基地としての機能を喪失するほどの大きな被害を受けることになりました。この攻撃により、少なくとも243人が死亡し、数百人の人々が住宅を失うことになりました。更に午後には、54機の陸上攻撃機がダーウィンの市街地と空軍(RAAF)基地を襲い、20機の軍用機を破壊しました。この空襲により251人が死亡し300人~400人が負傷しました。この日の日本軍によるダーウィン空襲は、真珠湾攻撃をしのぐほどの規模だったといわれています。

 

 1942年2月~1943年11月までの期間に、日本軍はダーウィンやウィンダムの市街地及び港湾施設を50回以上空爆しています。そのほかオーストラリア北岸に位置する港湾施設や空軍基地などで40回以上の空爆をしています。

 

 1942年5月31日、日本軍はシドニー沖合で停泊中の潜水艦から3隻の殊潜航艇を発進させて、シドニー港に停泊中の連合国軍艦船を攻撃しました。特殊潜航艇のうち1隻はシドニー港入口で防潜網にかかり自爆、1隻の潜航艇がアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを魚雷攻撃したのですが目標をそれて岸壁に停泊中のオーストラリア海軍宿泊艦クッタブルに命中し沈没させ乗員19名が戦死しました。また、隣に係留されていたオランダ海軍潜水艦KIXも爆発の衝撃で損傷しました。日本軍の潜航艇2隻のうち1隻は、攻撃の際受けた損傷が原因で沈没。もう1隻も、シドニー湾の南方海上で待機していた母艦の潜水艦のもとに、ついに帰還することがありませんでした。

 

 オーストラリア海軍シドニー地区司令官のグルード提督は、戦死した特殊潜航艇の乗組員のために海軍葬を行いました。兵士の遺骨はシドニーに拘留中だった日本公使に手渡され、1942年10月に日英交換船で河相公使とともに日本に戻りました。