Ⅵ 第五十一師団とダンピールの悲劇・ニュージランドの死闘

●第五十一師団は留守第十四師団を基幹として1940年(昭和15年)7月10日に宇都宮で常設師団として茨城・栃木・群馬の三県を徴兵区として編成された。

 

編成

第五十一歩兵団:歩兵第六十六連隊(宇都宮) 歩兵第百二連隊(水戸)歩兵第百十五連隊(高崎)

 

師団直属:捜索第五十一連隊 野砲兵第十四連隊 工兵第五十一連隊 輜重兵第五十一連隊 第五十一師団通信隊 第五十一師団兵器勤務隊 第五十一師団衛生隊 第五十一師団第1野戦病院 第五十一師団第2野戦病院 第五十一師団第三野戦病院

 

第五十一師団の管轄区域は1941年(昭和16年)から宇都宮師管区に改称、1945年(昭和20年)には補充任務等の管轄区域の軍政を担当する留守師団司令部は独立し宇都宮師管区司令部となった。

 

●師団は当初は東部軍に所属していたが、1941年(昭和16年)7月に満州へ派遣となり関東軍に所属、9月に華南に進出して第23軍に編入された、宇都宮歩兵第六十六連隊基幹の荒木支隊が12月の香港の戦いに参戦する。1942年(昭和17年)11月にニューギニア戦線に転用されることになり第18軍に編入、ラバウルに進出した。

 

●1943年(昭和18年)1月2日に連合軍によってニューギニア島東部の拠点ブナの守備隊が玉砕し、同地の拠点ラエへの攻撃が予想された。 このため、第8方面軍は第五十一師団(編成地:宇都宮)を増援として派遣することを決定した。

 

このためのラバウルからビスマルク海、ダンピール海峡をわたってニュージランドのラエへ造園の部隊を輸送する輸送作戦(第八十一号作戦)を計画、師団は2月28日にラバウルを出航した。しかし、3月2日・3日にダンピール海峡で連合軍の猛空襲を受け、輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻が撃沈され、作戦参加の将兵6,912名のうち3,000名が海に沈んだ。そのほか武器弾薬車輛等の物資2,500トンを喪失するという膨大な犠牲を出した(ダンピールの悲劇)この空爆によりニューギニアに揚陸できたのは第51師団長以下875名のみだった。救助された日本軍将兵2,700名はラバウルに戻った。

 

●ラバウルに戻った師団将兵もその後小規模に分かれて舟艇や駆逐艦の輸送でサラモアの南方ナッソー湾に上陸したがラエ・サラモアの戦いに敗れ10,000名の犠牲者を出すにいたった。サラモアを脱出しラエに後退する途上、標高4,000メートルのサラワケット山越えを敢行しての撤退は悲惨を極め、飢えと事故で1,000人以上の犠牲者を出すにいたった(サラワケットの悲劇)。さらに連合国軍の飛び石作戦に翻弄され飢餓との戦いを続け、約16,000名の師団成員は2,754名となり、宇都宮第五十一師団はほとんど全滅の状態で終戦を迎えた。

 

 

参考:ニューギニア島の地図