資料3 空襲と戦災関連用語集

 

E46 500ポンド焼夷弾 

日本本土都市空襲の際使用された、クラスター焼夷爆弾のこと、通称「集束焼夷弾」。なかにはM69油脂焼夷弾が18個づつ束ねられ2段に計36個収められていた(38発のものもあった)。投下されると地上約700メートル上空で炸裂して個々の焼夷弾が広く拡散して落下するしくみになっていた。日本では一般的には親子爆弾とも呼ばれていた。アメリカでは「モロゾフのパン籠」と呼ばれていた。その炸裂の状況が火花を散らしたように見えることから遠方の目撃者は「花火のようだった」と述べている

 

M69 100ポンド焼夷弾

油脂焼夷弾とよばれているナパーム弾、直径8センチ全長50センチの6角形の小型焼夷弾、日本の木造家屋を効率よく焼き払うために開発された。きわめて燃焼力の高い焼夷弾で,中にナフサや重油などの石油製品がゼリー状になったものが詰められ落下すると油性のものが飛び散り大火災を発生させる。「集束焼夷弾」の中に36発2段に分けて束ねられ内蔵されていて700メートル上空でばらばらとなり広範囲に落下する。直径8センチ、長さ50センチ重量24キログラムの6角形のもので、落下時の速度調整のために1~2メートルの布製のリボンが取り付けられていた。日本の空襲も最初のころは、飛行場や海軍基地があった軍港など、軍事施設や軍需工場が空襲目標としての中心だったが、1945年3月10日の東京大空襲を契機に、とくに目標を決めないで見境なく無差別に街を焼き尽くす作戦が取られるようになり、そのために第2次世界大戦中にアメリカで開発された。

 

カーチス・ルメイ

日本本土都市無差別爆撃を指揮したアメリカの空軍少将、第5代空軍参謀総長を務め広島・長崎の原爆投下や昭和20年3月10日の東京大空襲をはじめ全国地方中小都市に至るまでの日本本土都市無差別爆撃の総指揮官として徹底した焦土作戦を展開させた。その結果80万に及ぶ犠牲者を出すにいたった。戦後佐藤栄作内閣のとき我が国の自衛隊創設の功があったとされ、我が国最高の勲章である「勲一等旭日章」を受賞したしたことが問題となった。

 

グラマンF6F艦載機

グラマンF6Fヘルキャット艦載機。アメリカ海軍所属の戦闘機で極めて性能に優れ、ゼロ戦と互角の戦いを繰り広げ日本本土の飛行場や軍事工場などを襲った。日本本土での機銃掃射のうえで通常「グラマン」というと主としてこの機種を指すことが多い。

 

ゲルニカ大空襲

スペイン内戦(スペイン市民戦争)中の1937年(昭和12)4月26日、反乱軍のフランシス・フランコ将軍を支援するドイツ空軍によってスペイン北部の、バスク地方の自治と統一を象徴する人口7,000人の町ゲルニカの無差別爆撃がはじまった。人類が経験した最初の本格的な無差別都市爆撃(戦略爆撃)の象徴的出来事として顕著である。ピカソの名画「ゲルニカ」はこの空襲の惨状を画いたものである

 

テルミット焼夷弾

エレクトロン焼夷弾(elektron incendiary)とは、テルミット焼夷弾の一種で短時間に狭い範囲に集中する非常に高い温度を爆発的に生み出すことができる兵器である。 用途としては焼夷弾と照明弾を足したような兵器である。エレクトロンとはマグネシウム96%とアルミニウム4%からなる軽合金のことである。 エレクトロン合金の筒の中にテルミットが充填されている。エレクトロン焼夷弾は、テルミットの燃焼によりさらにエレクトロン(マグネシウム合金)に点火する。第二次世界大戦の対独爆撃に多用された(日本でも多用された)。信管で650度前後に加熱されると10~15分に渡って白く激しく輝いて燃焼する。 燃焼温度は摂氏2,000~3,000度にもなる。 燃えている間は水や消火剤をかけても消すことが出来ないため、ただ燃え尽きるのを待っていることしか出来ない。 燃焼に酸素を必要としないため、水中に放り込んでも地面に埋めても燃え続ける東京大空襲など第二次世界大戦で日本に多数が落とされた。 激しい光を出すため高高度からでも視認でき、火災を起こすことよりも攻撃目標へのマーカーとして多用された。

 

パリ爆撃

1914年第一次世界大戦が開始すると爆撃が逐次試みられた。ドイツによって1914年パリ爆撃、1915年飛行船による爆撃。

 

バルカン爆撃

1911年ドイツ軍の軽飛行機タウベによるバルカン爆撃が行われた。

 

パンプキン爆弾

パンプキン(Pumpkin bomb)とは第二次世界大戦中にアメリカ軍が開発し使用した爆弾。1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)「ファットマン」と大きさも重量4,800kgと同じで模擬原子爆弾として知られる。原爆投下のトレーニング用として投下したものとされている。昭和20(1945)年7月20日~8月14日の間にパンプキン爆弾は、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島、島田(静岡県)、焼津(静岡県)、浜松(静岡県)、名古屋、春日井(愛知県)、豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)など1都2府15県29市町の44目標に、計49発投下され約400名の死者1,200名の負傷者を出した。

 

マリアナ作戦

太平洋戦争で日本軍が「あ号作戦」とよんだ作戦。1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われた日本海軍とアメリカ海軍空母機動部隊(きどうぶたい)の海戦。アメリカ軍側ではフォレージャー作戦とされ一般的にはフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)とよんでいる。マリアナ諸島に侵攻してくるアメリカ軍の攻撃に対し、日本軍の作戦はことごとく敗北し戦闘能力を失いサイパン、グアム、テニアン、硫黄島などマリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなった。その後マリアナ諸島はアメリカ軍の基地が敷設され、それまで中国四川省からの発進基地にかわり、日本本土空襲の発進基地となり日本の敗戦は決定的なものとなった。

 

ドゥーリットル空襲

昭和17年4月18日、アメリカ軍によるB25爆撃機による日本本土発空襲。太平洋上の空母から飛び立ったジミー・ドゥーリットル大佐の率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市・兵庫県神戸市を爆撃した。16機中15機が爆撃に成功した。ドゥーリットル機は茨城県から東京上空に侵入し、午後12時15分に空襲を行った。東京第一陸軍造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい民間人に死傷者が出た。早稲田中学校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。1機は機体の状況不良のため作戦から離脱し不時着を試みロシアのウラジオストックに向かうその途中、登載の弾薬を放棄するが、その一つが栃木県の西那須野駅前に着弾した。

 

ヤルタ会談

1945年2月ルーズベルト,チャーチル,スターリンが出席してクリミア半島のヤルタで開かれた会談。ドイツに対する戦後処理として,米・英・仏・ソ連4ヵ国による共同管理および戦犯処罰と非武装化,国際連合の設立,ソ連の対日参戦(1945年8月8日)と千島・南樺太の奪回,新しく 国境のとりきめなど,戦後の国際秩序の大枠がきめられた(ヤルタ協定)。そのさい,第二次大戦後の日本問題に関する秘密協定が結ばれ(1946年2月公表)、ソ連の対日参戦を条件として樺太南部と千島列島の領有が認められることになった。この秘密協定は日本の北方領土に関して今に問題を残している。 

 

ロンドン空襲

第一次世界大戦中ドイツはゴーダー機による昼間イギリス本土空襲を計画するが当初成果が表れず、3度目の1917年5月にゴーダー機23機によるロンドン空襲を成功させる。延べ22回に及ぶ空襲で犠牲者約250人負傷者約700名の被害を与えた。小学校が爆破され約50人の児童が犠牲になるなど、当時は、航空機による攻撃によって大きく悲痛な被害が生じたため空爆に関し世界中に恐怖をあたえることになり、空爆中心の時代の到来、戦争史の上での新時代の到来とされた。

 

学徒出陣

昭和18年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させた(学徒動員)。当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人・満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。昭和18年10月21日、東京・明神宮外苑競技場において、文部省学校報国団体主催による「出陣学徒壮行会」(学徒出陣)が催され7万人が出陣した。19年徴兵適齢期が20才から19才に引き下げられ学徒兵の総数は13万人に上った、多くの学生が戦地に赴き犠牲になった。

 

漢口(ハンコウ)

中国湖北省にあった都市で現在武漢市の一部となっている。1858年に開港しイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本の租界があった。著しい経済発展を遂げ当時は東洋のシカゴとも呼ばれていた。日中戦争期には、ほとんど日本軍がその支配下に置いていた。1944年12月18~3日間にアメリカ軍の無差別爆撃を受け日本軍部隊もろとも破壊されつくした。此のアメリカ軍の空襲は東京大空襲のテスト的試みだったといわれている。

 

艦載機

艦載機(艦上戦闘機):航空母艦のカタパルト(飛行機発着用の台)から発着する戦闘機で太平洋戦戦争後期の艦載機の日本本土空襲ではでは、グラマンF6Fヘルキャット(グラマンF6Fヘルキャット参照)が主力となり、県内にも何度も来襲している。日本に襲来した「艦載機」というのは通常この機を指すことが多い

 

機銃掃射

戦闘機に備え付けられた機関銃で目標に向かってうちまくること。この機関銃は一秒間に何発も発射できるものだった。短時間の空襲でも人々に与える衝撃は非常に大きく、特に人がたくさんいる駅や電車は、機銃掃射の最大の標的にされ栃木県内の各地でも大きな被害が出ている

 

空襲

空からの爆弾や焼夷弾を投下して地上の目標物を破壊する攻撃を空襲または呼んでいる。「戦術爆撃」と「戦略爆撃」といわれる爆撃は空襲の主な方法である。「戦術爆撃」は軍事目標だけを狙う「精密爆撃」と軍事標的が存在する地域全体を空爆する「地域爆撃」のふたつに区分されている。「戦略爆撃」は直接の軍事目標のみでなく,軍事産業地帯, 工業地帯、交通施設,政治・軍事の中枢地域など直接的に戦争遂行に関するもの破壊し,その戦争能力を喪失させようとするもので、また戦略爆撃は、工場や港、油田などの施設を破壊する「精密爆撃」、住宅地や商業地を破壊して敵国民の志気を喪失させる「都市爆撃」とに分けられている。 「都市爆撃」は、無差別爆撃 恐怖爆撃 絨毯爆撃とも呼ばれるが、「無差別爆撃」という呼び名が多く使われている。日本本土空襲は昭和17年が初めてだがその後2年ほどとだえていた。それがB29爆撃機が開発されると、飛ぶ距離も大きくなりまた爆弾を積む量も多くなった。そのため19年末から空襲を再開し、南の島々がアメリカ軍の手に落ちると、日本により近いマリアナに基地を移し空襲も頻繁となりやがて日本の主な都市を焼き尽くすことになった。空襲は空爆ともいうが一般的には飛行機など空中からの爆発物の投下を空襲といい、海上の艦船から地上の施設や都市を攻撃するのを艦砲射撃と呼んでいる。地上や艦上からのミサイルによる攻撃を弾道ミサイル攻撃、巡航ミサイル攻撃と呼んでいる。

 

軍事教練

戦争中には徴兵制度があり男性は20歳となると徴兵検査を受けて兵役につくことが義務づけられていた。そのために将来兵力になるための基礎訓練として学校などで銃剣術や歩行訓練などがおこなわれていた。指導は退役軍人が行う場合いが多かった。男子生徒ばかりでなく、女子生徒に対しても薙刀の訓練などが行われていた。

 

集束焼夷弾

E46 500ポンド焼夷弾の項参照

 

女子挺身隊

多くの男性が徴用で戦地に行ったので、働き手がなくなりそれをおぎなうために、政府は法律をつくって、未婚の女性を働かせた。「白紙」と呼ばれた用紙一枚で集められた女性は、女子挺身隊という組織に入れられ、おもに軍需工場などで働かされていた。

 

千人針

明治期、日露戦争の頃は「千人力」と呼ばれていた。武運長久を願って千人の署名を集めたのが始まりとされ、それが困難なことから、のちの縫い目を1,000個集める方法に変わったものといわれる。白いさらし布に赤糸でひとりひと針ずつ千人の女性に結び目をつけてもらったことから千人針と呼ばれるようになった。日本では赤色は古来「魔除け」の意味を持つ色とされていることから、腹巻きなどにして身につけていると敵の弾に当たらないという縁起をかついだもの。死線(四銭)をこえる意味から五銭玉を、苦戦(九銭)に勝つという意味から十銭玉がぬいつけられることもあったまた、「虎は強く千里を走り早くもどってくる」といわれたことにあやかり、結び目で虎の絵をつくったりもした。千個のぬい玉をもらうことは大変なことだが、寅年生まれの女性は年齢の数だけぬうことができた。

 

戦闘機

小型の飛行機で爆弾はあまり積めないが機関銃を備え、ねらい撃ちなどをする。日本を頻繁に襲っていたノースアメリカンP51ムスタング機(P51ムスタング機参照)は、アメリカ陸軍航空隊に属しB29の護衛戦闘機として造られたものだが、やがて護衛機としてではなく、独自に攻撃を加えるようになった。また海軍所属の空母から発着する戦闘機は「艦載機」と呼ばれ、グラマンF6F戦闘機(F6F戦闘機参照)が主力だった。7月28日に宇都宮を襲って多くの犠牲者を出したときの戦闘機はこの機である。

 

疎開

都会の人たちが空襲の危険を避けるため、安全な地方のまちや村に移り住むこと。昭和18年(1943年)10月、「防空法」が改正され、初めて「疎開」の言葉が登場するようになった。

縁故疎開―親戚や知人を頼って疎開するもの。

集団学童疎開-東京など大都会の児童らが農山村に疎開し、学校単位で集団生活をした。

建物疎開―都市密集地の道路をひろげ、広場を造るなどして空白地帯をつくり、消火活動がしやすいように強制的に家を取り払い疎開させること、町ぐるみ強制疎開するケ―スもあった。

生産疎開―軍需工場などを大都市から地方にうつすため疎開すること。子どもたちの中には、身体が弱い、団体生活に適さないなどの理由で、都市部で生活を続ける子もいた。集団学童疎開をした子どもたちの中には疎開中に両親を空襲で失い孤児(戦災孤児)となった子もたくさんいた。

 

太平洋戦争全国戦災都市空爆犠牲者慰霊塔

昭和31年10月26日太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔』は、太平洋戦争中の空爆その他による犠牲 者で、軍人軍属以外の50万9,700余の死没者を供養し霊を慰めるとともに、世界 の恒久平和を祈念するために姫路市に建立された。搭の前垂れには113戦災都市(1都、99市、13町の位置と名前が、側柱には1本毎に戦災都市の被爆年月日、死没者数、罹災人口が刻まれてある。栃木県は宇都宮市と鹿沼市の側柱が建立されている。
【所在地】兵庫県姫路市西延末475番地手柄山公園内 079‐291‐2525

 

代用食

戦争が長引くと、農家の人々も戦地にかりだされ手不足となって農業の仕事も余りできなくなってしまったが、そのうえ、太平洋の制海権を失い輸入が難しくなると、日本は極度に食料不足に陥った。手に入りにくくなった主食の米に代わるものとしてさまざまなものを食べていた。野草やドングリまで食用とされた。

 

燈火管制

戦時中は灯火管制といって、光を家の外にもらさない決まりになっていた。灯りが漏れると夜間の空襲で目標になりやすいと考えられていた。電燈の 真下だけ明るく照らすように電球面に塗料を塗った電球や。一般の家では、黒い布で、電灯のまわりを囲んだりカバーをかぶせたりしさらに窓にも黒いカーテンをひいて灯火管制に協力していた、

 

防空演習

防空訓練は中国と戦争を始めたころから定期的に行われていましたが、太平洋戦争に入ってからは日常化し、家庭の主婦までが参加させられるようになった。訓練は焼夷弾の処理や消化訓練、防毒マスクのつけ方など実戦的な内容だった。しかし、B29爆撃機による焼夷弾の大量投下の前には日ごろの訓練はほとんど役に立たなかった。火を消そうとしてかえって、逃げ遅れてしまい犠牲者の数を増やす結果になってしまった。

 

無差別爆撃

無差別都市爆撃。兵力その他の軍事的施設等と一般の人民・民生とを区別せず都市に対して行う爆撃のことで、「絨毯爆撃」また「恐怖爆撃」(テラー・ボン=terror bomb)」ともいわれる。無差別爆撃は、空爆によって都市を破壊し、一般市民を巻き添えにして相手国の戦意を喪失させることを主な目的とした。1978(昭和53)年に発効したジュネーブ条約第1追加議定書は「文民を攻撃の対象としてはならない」「無差別攻撃を禁止する」「攻撃は厳格に軍事目標に限定する」と戦闘方法の制限を明文化している。日本は2004年この重要な国際人道法に加入している。空襲の項参照。

 

硫黄島の戦い

昭和20年2月16日アメリカ軍は、硫黄島に対し艦砲射撃と空爆を開始する。19日には B29による徹底的な爆撃と集中的な艦隊からの艦砲射撃のあと南 海岸には約130隻の上陸用船艇第一波が上陸した一か月後の3月17日、壮絶な戦闘を続けてきた日本軍は、総攻撃を最後に日本軍の組織的な戦闘は終わるが、その後6月末まで日本軍による奮戦は続いた。昭和19年3月22日組織的戦闘終結、戦死者20,129名(島民から徴用された軍属82名)。生還者 1,933名。米軍の戦死者 6,821名、負傷者21,865名。合計28,686名という人的損害は、日本軍守備隊の総員を大きく上回っている。

 

ドレスデン大空襲

ドイツの都市、当時「ヨーロッパのショーウインドウ」と讃えられた美都であり大戦中『無防備都市』を宣言していた。1945年2月13日~17日にかけて、イギリス・アメリカ軍によって爆撃が行われた。第二次世界大戦中ヨーロッパ最大の空襲とされ、15万人近くが犠牲になったとされている。

 

徴兵制度

日本では太平洋戦争の終戦まで徴兵制度があった。1889年に、成人男性に対して国民皆兵が義務付けられ、甲種合格の者はほとんどが入隊した。戦局が悪化してくると、兵役義務を負えた除隊となった在郷軍人(予備役や後備役)も召集令状によって召集されるようになった、太平洋戦争末期の昭和20年には徴集率は九割を超えた。通常、現役での徴兵を「徴集」、予備役・後備役での徴兵を「召集」と呼んだ。徴兵は兵役法により20才~40才であるが昭和18年より19歳から19年より17才に引き下げられた。大学や高等師範学校などの在学者は最高27歳まで徴集が延期されていた。この制度は1943年(昭和18年)10月に廃止(学徒出陣)されたが理工系や医科系の学生だけはなお猶予(ゆうよ)されていた。また師範学校卒業者は兵役につく期間が短くて済んだ。また熟練工や植民地人の徴兵も行われるようになった。徴兵制度は戦後陸軍省海軍省の解体に伴い軍そのものが消滅し、徴兵制度の根拠となる兵役法は1945年(昭和20年)11月廃止された。

 

精密爆撃

戦闘・戦争において必要箇所を破壊するときに、多数の爆弾を用いて目的物以外にも被害を与えてしまう結果を招くよりも、少数の爆弾で必要箇所を徹底的に破壊したほうが効率的である。また、破壊箇所を特定することで、一般市民への被害を抑える効果もある。このため、照準器の性能向上や誘導兵器の発達によって空襲も、従来の絨毯爆撃中心の空爆から精密爆撃へと転化してきている。現在では人道上の理由などにより先進国では精密爆撃が主流になっている。

 

ポツダム宣言

1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において日本に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。ソビエト連邦は日ソ間の同盟関係にあったことから後から加わり追認することになった。当初の宣言を関係各国の名をとり「米英支三国共同宣言」ともいう

7月27日日本政府はこの宣言を黙殺することを閣議決定。その結果として8月6日および9日のアメリカ軍による広島長崎の原爆投下、8月9日のソ連軍による満州侵攻が展開されることになる。8月14日、日本はこの宣言を受諾し翌15日天皇は「終戦の詔勅」を発した、この日を記念して現在日本では8月15日を「終戦記念日」としているが。実際の終戦は1945年9月2日ミズリー号船上で日本が降伏文書に署名した日であるとされている。

 

警防団

防空や消防その他の警防にあたる人たちの組織、今の消防団と警察が一緒になったような組織だった。防空訓練の指導・指揮、灯火管制の徹底、警戒警報・空襲警報の地域への周知など

 

高射砲

敵の航空機の攻撃から自国の軍隊や領土にを守るために、地上から飛行機に向けては発射するようにつくられた砲

 

進駐軍

昭和20年(1945年)11月聯合軍司令官(連合国) セッションズ中佐他4,500名

 

照明弾

花火のように発光して、夜でも攻撃しやすいように地上を明るく照らす爆弾

 

不発弾

焼夷弾や爆弾の不良品や田や畑のやわらかい土に突きさり破裂しなかったもの。後日、不用意に不発弾に触れて爆発し命を落としたり火傷を負うなど大怪我をする事故があとをたたなかった。

 

気銃弾

弾薬を自動的に装填しながら連続発射する銃―機関銃―

 

勤労動員

労務動員とも言われていた。中学校以上の生徒たちは、工場や農村の手伝いにかりだされた

 

警戒警報

敵機が来襲することを予想して知らせること、サイレンは3分連続のサイレンで知らせた

 

軍需工場

飛行機や戦車・武器などを製造する工場、宇都宮にも中島飛行機製作所(今の富士重工)、関東工業(機関銃製作)、各和製作所(砲弾製作)など生産疎開してきた工場がたくさんあった

 

空襲警報

敵機襲来の恐れのあることを緊急に知らせること、サイレンは8秒の間をおき4秒ずつ10回鳴る

 

枢軸国

第二次世界大戦中に連合国側と戦った国々、日本、ドイツ、イタリア。フィンランド、ハンガリア、ルーマニア、ブルガチア、タイなど、但しドイツ・イタリア以外の国々が武力行使を行わうことはなかった。

 

戦略爆撃

 相手の戦争継続能力を奪うための必要箇所に限定して攻撃する空爆爆。主要軍事施設・生産施設・物資貯蔵所・交通網や政治・軍事の中枢などに対する爆撃。「空襲」の参照

 

戦災孤児(戦争孤児)

戦争の結果保護者を失った子供(孤児)のこと、太平洋戦争の時の日本本土空襲によって両親などを失った子供、出征先で親を失った子供、終戦後海外から引き揚げのさい両親が病死して孤児になった子供(引揚孤児)など、123,511名(昭和23年2月1日厚生省調べ)に達した。その8割が空襲による戦災孤児である

 

破片爆弾

爆発時の破片によって地上の殺傷力を高めた爆弾 260ポンド

 

汎用爆弾

特別な誘導装置を持たず航空機から投下させて地上を攻撃する爆弾 500ポンド

 

奉安殿

天皇・皇后の御真影(写真)と勅語謄本(教育勅語のうつし)をおさめた小さな建物で、学校や役所などの入り口付近に設置されていた。

 

金丸原飛行場

明治40年9月、第14師団の宇都宮駐屯に伴いその練習場として大田原の金丸原に廠舎(兵舎その他の関連)の建設がすすめられ45年竣工した。習志野予備病院、捕虜収容所も移築された。昭和9年(1934)所沢陸軍飛行場の不時着場が建設され、昭和10年所沢陸軍飛行学校の金丸原分教場となり、飛行学校第66期生が入港した。熊谷陸軍飛行学校文教場ともなり、数千名に上る空中勤務員を輩出した。

 

防空頭巾

空からの攻撃から頭や顔を守るためにかぶる綿入れの布製のかぶり物

 

油脂焼夷弾

M68 100ポンド焼夷弾」の項参照

 

罹災証明書

空襲で家を焼かれ罹災したことを証明するもの。この証明書を見せると、鉄道切符が優先的に購入できた、また食糧難の時代、転出先でも特別配給が受けられることから罹災者にとって極めて重要なものだった

 

埼玉飛行場

那須野陸軍飛行場 黒磯飛行場 ともいわれる。那須野陸軍飛行場の項参照

 

黒磯飛行場

那須野陸軍飛行場参照

 

国民学校

昭和16年4月から、「尋常小学校」は「国民学校初等科」という名称になった。それにともない教科書も、軍国主義の考え方が強い内容になりました。当時は初等科のうえに2年生の國民学校高等科があり8年の義務教育だった

 

師団司令部

地方を統括する軍の司令部。宇都宮にも師団司令部が置かれていた。宇都宮師団は栃木、茨城、群馬の全域と長野県の一部を統括していた

 

親子爆弾

集束焼夷弾の通称、E46 500ポンド焼夷弾「集束焼夷弾」の項参照

 

第十四師団

宇都宮師団の系譜 第十四師団参照

 

防空訓練

空からの攻撃に備え消火や毒ガス・細菌対策、救命応急処置の訓練を行うこと。ほとんどの自治会単位で組織され、訓練参加は、ほぼ義務化されていた。

 

那須野陸軍飛行場

黒磯町(現在、那須塩原市)の埼玉にあったことから、埼玉飛行場・黒磯飛行場とも呼ばれていた。

1942(昭和17)年 熊谷陸軍飛行学校那須野分教所として開校。一辺約1700mの方形。幅53mの滑走路1本。格納庫。

1943(昭和18)年9月 宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊となる。1944(昭和19)年10月 熊谷陸軍飛行学校那須野教育隊となる。1945(昭和20)年4月 鉾田教導飛行師団が移駐、本拠地となる。

1945年5月 特攻隊12隊の編制。双襲(二式複戦)8隊 双軽(九九双軽)3隊、7月 第二十六飛行団の司令部(燕第34221)がおかれるキ102(甲)(乙)(丙)の配備。

8月13日 神鷲201隊(双襲)6機出撃。2機突入、3機目標未確認のため帰還。1機帰還途中不時着。大岡昇平によれば陸軍最後の特攻となったとされる。

 

中島飛行機宇都宮製作所

中島飛行機製作所 宇都宮製作所は陸軍機を生産するための機体組み立て工場として1943年に着工、昭和19年(1944年)1月に生産を開始。5月にキ84(疾風)の第1号を完成し終戦までに727機を完成させた。機械部品は栃木工場、油圧系統部品は太田原市金丸工場などから搬入された。航空機の生産拠点とする計画で宇都宮飛行場近くに大規模な工場を建設していたが未完成のまま終戦を迎えた。最高3万近い従業員の3分の1は学生による勤労奉仕だった。空襲が激しくなると工場疎開が進み、疎開先として城山、栃木、太田原、千本松などであったが、中心は河内郡城山村(現・宇都宮市城山)だった。ここは大谷石の採掘場であって採掘跡を利用しての本格的な地下工場(大谷地下工場)建設計画であったが、終戦までにその一部しか完成しなかったが胴体や翼の生産が行われていた。

中島飛行機製作所の飛行場は戦争中陸軍が使用し宇都宮南飛行場と呼ばれていた。何度も艦載機の攻撃の対象となり1945年7月10日の空襲では部品工場にも影響が出て、宇都宮製作所での生産は困難に陥った。また8月13日に艦載機による急降下爆撃に見まわれ工場の6棟が大破した。

戦後陸上自衛隊北宇都宮駐屯地、陸上自衛隊第12飛行隊航空学校宇都宮分隊となっている。南工場は、富士重工の航空機生産拠点となっている。 

 

中島飛行機宇都宮製作所 大田原分工場

昭和20年、大田原市美原町に設立されたが、戦闘機の攻撃にさらされ、僅か1機を生産しただけで終戦を迎えた

 

防空壕

空襲のときに身を隠し避難し待避するために、建物や道路・公園・学校の校庭などの地下や、山や川の土手などに横穴を掘って造られた避難場所、正式には待避壕と呼ばれている。一人しか入れないもの「たこつぼ」から何百人も入れる大きなものまでさまざまなものがある。家の床下に掘って作った床下式、地面を掘りさげ、木材や畳で屋根をとくった堀穴式掩蓋式と呼ばれるもの、石垣や山などを掘った横穴式、隧道式とよばれるもの、また鉄筋造りのものなどいろいろな形態のものがあった。実際の空襲では、昼間の空襲では敵機から身を隠すのに役に立ったものの、夜間の無差別爆撃ではほとんど役に立たなかった。

 

赤紙

正式には「臨時召集令状」、赤い用紙を用いていたため「赤紙」または「赤紙召集令状」と呼ばれていた

 

焼夷弾

燃焼力の強い爆弾、日本には油脂焼夷弾を主力とし黄燐焼夷弾・エレクトロン焼夷弾などが投下された。

 

成都(セイシン)

中国四川省の首都、成都平原の中にあり古くから栄えた大都市太平洋戦争中アメリカ軍の日本空爆のための基地がつくられ日本本土空襲の初期にはB29爆撃機の発信基地となっていた。

 

青島(チンタオ)

中国山東省にあり膠州湾に面する重要な港湾都市、中国海洋商業の中心都市となっている。第一次大戦前、ドイツは膠州湾に軍港を造り東予地区進出の拠点として青島の街を整備したが、連合国側だった日本軍の空爆の対象となった

 

集束焼夷弾(収束焼夷弾)

E46 500ポンド焼夷弾参照

 

B25爆撃機

アメリカのB29爆撃機が開発される以前のアメリカボーイング社の主力爆撃機、日本本土空襲の初期の時期に中国成都に基地を置いて主に九州地区の工場地帯を目標に昼間の空爆に係りあっていた。

 

B29爆撃機

アメリカのボーイング社製の大型爆撃機、爆弾・焼夷弾の登載トン数、飛行距離の上でB25爆撃機をしのぐものとして1943年に開発され、長さ30メートル翼の幅が約43mもある当時としては世界最大の爆撃機だった。1944年以降の日本本土空爆の主力の爆撃機となった。

 

M47 1000ポンド焼夷弾

大型焼夷弾、一般的には「焼夷爆弾」と呼ばれていた。とくに爆発の力が強く、中に油を固めたものが入っていて、強力な破壊力と燃焼力を持っていた。都市空襲の開始される直後に投下し、建物を破壊しその後に小型の油脂焼夷弾を大量に投下し、町を焼き尽くす作戦がとられていた。

 

M50焼夷弾

M17集束焼夷弾の中に110本集束されているテルミット・マグネシューム焼夷弾。ドイツ空襲のために開発されたもので、コンクリートを貫くほどの強力な貫通力と、強度の高熱を発する焼夷弾。昭和20年ドイツ降伏後の日本本土空襲でも使用された。

 

P51ムスタング

B29爆撃機の護衛機として活躍したアメリカ陸軍飛行隊所属のノースアメリカンP51ムスタング戦闘機、太平洋戦争末期には単独で日本の軍事施設や、鉄道などを襲っていた

 

サイパン島玉砕

マリアナ諸島がアメリカ軍の手に落ちると日本本土空襲はこれまでその範囲も九州地区に限定されていたものが、さらに全国に拡張され国民の士気が著しく低下させ戦争継続が困難となることが予想されるようになった。1943年9月末に日本軍は絶対国防権を定めサイパン島をその中核拠点とした、アメリカ軍は1944年6月11日サイパン島に対しアメリカ艦載機1100機が奇襲空襲を行った13日上陸船団がサイパンに接近し、18万發の艦砲射撃を加えそのご上陸した。日本軍はほぼ全滅し司令官は自決、7月7日「万歳突撃」を敢行7月9日サイパン線は終結した。

 

盧溝橋事件

1937年7月7日夜,中国,北京南西郊の盧溝橋付近で,演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃がなされたことを契機に日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第 29軍との衝突に発展した事件。この事件を契機に日中戦争は一気に拡大していく