那須烏山市の空襲

烏山町≪烏山町・境村・向田村・七合村)南那須町(荒川村・下江川村)≫ 

≪ ≫内の黒文字は、域内の昭和20年当時の市町村、紫字は20年以降( )内の市町村が合併して成立した市・町名

 

昭和20年7月7

 午前2時40分頃、烏山・日の町(現・旭町一丁目、二丁目)から上境町にかけて焼夷弾が投下され死者1名、罹災者73名、全焼7戸、半焼1戸の被害を出しました。(烏山町史 昭和53年3月1日発行 烏山史編纂委員会)

 

 烏山町史記載の記録は、 烏山町の八板刀冶氏の当時の日記の記載によるものです。記録にあるとおり焼夷弾投下が事実とするならばアメリカ軍重爆撃機B29の襲来以外に考えられませんが、7月7日にアメリカ軍機B29の襲来の記録は米軍資料上(アメリカ軍のXX1爆撃機集団作戦任務報告書「Tactical Mission Report」)に烏山町の記載はありません。しかし当日は千葉・甲府・清水・明石が空襲攻撃目標とされ、千葉市が7月7日1時39頃から3時5分にかけてB29による大空襲を蒙っていますので、空襲後の帰路烏山上空を通過した際に余剰焼夷弾を投下した可能性があります。(B29爆撃機は、千葉空襲の帰路、銚子・大洗・日立界隈の高射砲陣地を回避し航路を真北にとり、烏山近辺の上空から右に回り北茨木海岸から太平洋に脱出したものと考えられています。)

 

  また、日記には、ラジオ放送でアメリカ軍機が「宇都宮上空にあり」と報じた直後のことと記載されています。宇都宮地区には当日夜0時8分に空襲警報が発令され2時20分に空襲警報解除されています。B29数機が宇都宮付近を旋回し(伝単散布の行動と思われます)通過し、羽黒山神社近辺の山林に焼夷弾が投下していますが被害はありませんでした。

 

 昭和20年7月7日の空襲については下記の通り陸軍東部軍管区司令部7月7日11時発表の記録があります。具体的都市名は記載されてはいませんが、記載されている二、三の小都市に烏山町が該当する可能性を否定できません。7日のラジオの東部軍管区情報についてはNHK(当時日本放送協会)の記録は終戦時破棄されて残されていません

 

東部軍管区司令部(昭和二十年七月七日十一時)

一、 B29約二百機は六日二十三時三十分より七日三時三十分に亙る間、四梯團に分れ、管區内に中小都市に分散來襲し、主として、焼夷弾攻撃を実施せり

二、 甲府、千葉の両市は敵焼夷弾攻撃により火災発生を見たるも七日拂曉までに概ね鎭火せり、その他二、三の小都市に対し焼夷弾投下ありたるも損害極めて軽微なり

三、 管區内中小都市の攻撃は今回が最初にして爾後この種分散來襲に対し厳戒の要あり月九日二十三時四十分北海道幌別郡幌別村附近牧場に対し海上より敵潜水艦の砲撃ありたるも我方損害なし

 

 また昭和20年7月8日発行の下野新聞は、当時の状況を次のように報じています。

 

 『7日午前3時頃、敵機は那須郡某所に對し焼夷弾を投下したが焼失家屋七戸死者一名にとどまった。なお同時刻河内郡の山林に持焼夷弾の落下があったが被害はなかった』

 

 同紙掲載の『那須郡某所は』が当時の烏山町であったということは、当時を知る多くの県民の証言から間違いのない事実であったと思われます。

 

 烏山の空襲は、アメリカ軍による日本本土空襲が、それまでの大都市・軍事産業都市中心の空襲を10万以下の中小都市空襲へと切り替った時期にあたります。(米軍機による日本本土空襲 第5期)関東地方では千葉市が最初となりました。宇都宮市は7月12日に大空襲を受け関東地方では2番目とされていますが、B29による烏山の夜間空襲は栃木県内初の都市空襲として位置づけられ、これを契機として県内の都市空襲、特に宇都宮市の防空体制が強化され、防空意識が高揚されることになりました。その結果として、5日後の宇都宮空襲がその空襲の規模からみても他都市と比較して被害、特に死傷者の数をかなり少なく抑えることが出来たと当時の新聞は報道しています。