Ⅳ 第三十三師団とインパール作戦 ー全滅に瀕した師団ー

第33師団は1939年(昭和14年)2月7日に仙台市で編成された。通称「弓」、補充担当は宇都宮師団区である。

 

編成

歩兵第213連隊(水戸) 歩兵第214連隊(宇都宮) 歩兵第215連隊(高崎)

 

師団直属:山砲兵第33連隊 工兵第33連隊 輜重兵第33連隊 第33師団通信隊 第33師団兵器勤務隊 第33師団衛生隊 第33師団第1野戦病院 第33師団 第2野戦病院 第33師団防疫給水部 第33師団病馬廠

 

編成後、中国戦線へ、第11軍戦闘序列に編入されて中国の湖北省で武漢地区警備などに従事していたが、その後1941年(昭和16年)4月に中国北部に転用され山西省に駐屯した。太平洋戦争が始まると第15軍の戦闘序列に編入され、東南アジア地区に派遣された。1942年2月南部ビルマ作戦北部ビルマ作戦、1944年3月インパール作戦、1945年1月イラワジ会戦などに参加した。1945年5月中旬以降はテナデリゥム地区の守備に従事していたが、同年8月6日にバンコクに移り第18方面軍の指揮下に入り13日以降ナコンパトムに向かう途中で終戦をむかえた。1946年6月3日に浦賀港上陸、同月5日、復員完結

 

インパール作戦

 

●1943(昭和18)年2月にガダルカナル島の守備隊全滅以降の太平洋方面での日本軍の戦力はかなり劣勢に立つっていた。ビルマ(現在のミャンマー)でも、連合軍の積極的に反撃に転じ同年2月、イギリス・インド連合軍(英印軍)が3,000が国境の峻厳な山脈を踏破して中部ビルマに進出し、激戦が繰り広げられていた。

 

●日本軍は第十五軍(第十五軍司令官牟田口廉也中将)によってインド側に在ってビルマに最も近いイギリス軍の拠点都市「インパール」の攻略を主目的とした作戦(インパール作戦)が推進されることになっていたが、ビルマとインド国境には峻厳な山脈がそびえていて、ビルマへの大軍の侵入は非常に困難なものと判断していただけに、この英印軍突如の出現は日本軍にとって脅威的なものだった。

 

●英印軍は物資や食糧などの補給をすべて飛行機から前線へパラシューで降下させる作戦をとっていたが、それに対しビルマの日本軍には航空戦力もなく、トラックすらも充分に調達できていない状況の中で、必要とされる物資の運送力は人力と牛馬に頼るしかない状態だった。

 

●インパール作戦は当初から主に補給の面から批判が続出していた。また東南海の各地で玉砕がかさなる敗色の濃いこの時期での戦力の補給は困難であるとの判断からも、この時期での新たな大規模作戦に対する消極的見解が大きかったが、作戦は実行されることになった。この作戦には、「チャンドラ・ボース」率いる「インド国民軍」も約6,000人参加することになっていて。インパール作戦は西洋からのアジア解放の一環であるという大義名分を持つことができるという思惑が首脳部にはあったと言われている。

 

●その頃にはビルマ北部ではアメリカ軍に支援された中国軍が、中部ではイギリス軍空挺(くうてい)部隊が日本軍占領地に攻め込んできており、ビルマそのものが激しい戦場になっていた。それにも関わらず牟田口中将は作戦を決行。3月8日にチンドウィン河を渡り進撃を開始した。兵力は後方支援も含め、約9万人に及ぶ大作戦だった。

 

●インパール攻略に必要とされた期間は3週間。兵の各自が2、3週間分の米を背負い、足りない分は各師団数千頭の牛を引き連れていった。しかし進撃の山岳路は想像以上に険しく厳しいもので、運搬と食糧のために徴発して連れていった牛は、チンドウィン河を渡る際に半分が溺死、残りも崖から転落死したり、餌不足からの病死や餓死でインパールと、その北部の目標地点コヒマに到達したときには、すべての牛を失っていた。

 

そのような状況の中で日本軍は進撃を続けインパールを包囲し、その北のコヒマを占領したが、これは、日本軍をインドに引き込み、補給線が絶えたところを一斉に叩くという、インパール作戦の全容を把握していたイギリス軍による戦術に迎合した形になってしまった。

 

●1944年(昭和19年)5月、インパール作戦の日本軍第三十三師団はビシェンプール攻撃するが、70日にわたる戦闘で6月30日の師団の損耗は戦死傷者約7,000、戦病約5,000、全体で12,000名。第三十三師団の70パーセントにのぼった。インパールに最も近いレッド・ヒルでは第三十三師団宇都宮二百十四連隊が全滅した。水戸213連隊も4,278名もの犠牲者を出した。

 

●イギリス軍は、最新の兵器を大量に動員して各地で日本軍を撃破していったが、補給の途絶えた日本軍は、第十五軍司令部に盛んに補給を要請するが、前線にはほとんど物資は届かなかった。

 

●補給をめぐっては、前線の各師団と軍司令部の間の緊張は高まりコヒマ占領を任務とした第三十一師団の佐藤幸徳師団長は、前進を命じる牟田口中将の命令に反し、食糧のある場所まで引き返すと明言し、独自に退却を始た(佐藤師団長抗命事件)。第十五師団、第三十三師団の師団長も軍司令部との間の確執が強くなり、前線の三師団全ての師団長が解任されるという、異常事態に陥った。

 

牟田口司令官の命令に反し、独自に退却を行った第三十一師団の佐藤師団長は、作戦終了後、精神錯乱として軍法会議には欠けられず後方に左遷させられた。上官の命令に背くことは法律(陸軍刑法)違反であり、最悪の場合死刑になる可能性もある大罪だった。また、師団長という重職にある者が命令に背いたことは、日本陸軍始まって以来の大事件だった。

 

●このような状況の中でも作戦は続行されインパール周辺の日本軍部隊の弱体化は、赤痢やマラリア、などの疫病や上からくる脚気などの病気が多発し、将兵の3分の1は負傷や病気で動けない状況になってしまっていた。

1か月後の7月8日、ようやく撤退命令が出されたが、その時にはほとんどの将兵には食糧はなく、撤退中も村落などを襲い食糧を奪ったり、ジャングルでは草や野生の虫や動物を食べながら撤退した。日本軍の退却路には倒れた将兵の白骨が連なり、「白骨街道」と呼ばれるほどの悲惨な状況を呈していた。

 

●このインパール作戦に投入された戦力は23万、その内の18万が帰らぬ人となった。 インパール作戦の失敗によりビルマ戦線での兵力は極端に落ち込み、日本軍の戦闘も一層厳しさを増す中で終戦を迎えることになった。