Ⅱ 第十四師団とペリリュー島・アンガウル島の玉砕

●第十四師団は1905年(明治38年)福岡県小倉で結成され、同年8月に乃木希典大将の指揮する満洲軍第3軍の隷下に入り満州警備の任に就いていたが、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の旅順の東鶏冠山攻撃に参加する。1906年(明治40年)に姫路の第十師団が満州移駐することになったため、その留守部隊として姫路に駐留することになった。

 

●歩兵第二連隊は当初1874年(明治7年)東京鎮台(のち第一師団に改組)の第二連隊として宇都宮で編成、宇都宮城内に駐留していた。1884年(明治17年)佐倉に移駐、西南戦争に参加後連隊本部も佐倉に移駐となりその後 日清・日露の戦いに参戦した。(明治40年宇都宮第十四師団水戸歩兵第十七旅団隷として水戸に移駐した)

 

1884年から1907年までの約20年の期間宇都宮には軍隊は存在していなかった

 

●1907年(明治40年)9月に 第十四師団の衛戍地が栃木県宇都宮(河内郡国本村 現宇都宮市中戸祭町・国立病院機構栃木医療センター)に決定、第十四師団司令部が宇都宮に設置された。

 

佐倉歩兵第二連隊、習志野歩兵第五十九連隊(豊橋第十五師団所属)が第十四師団歩兵第二十七旅団(水戸)に、また高崎歩兵第十五連隊(東京第一師団所属)と宇都宮第六十六連隊(新設)が第十四師団歩兵第二十八旅団(宇都宮)隷下となった。

 

第十五連隊は1884年(明治17年)高崎で編成された。東京鎮台(のち東京第1師団に改編)隷下として、秩父事件、日清・日露の戦争に参戦1907年第十四師団の所属となった

 

1908(明治41年)年10月23日 - 師団司令部が宇都宮の新庁舎(現在の国立病院機構栃木医療センター)に移転。同年内に 歩兵第二十八旅団司令部、騎兵第十八連隊、満州野砲兵第二十連隊、輜重兵第十四連隊が宇都宮への移駐、1909年(明治42年)5月歩兵第五十九連隊が水戸から宇都宮への移駐を完了する

 

 

編成

●第十四師団所在地第十四師団司令部 (宇都宮市 現・国立病院機構栃木医療センター)

●歩兵第二十七旅団司令部(現・水戸市 茨城大学)

●歩兵第二連隊(現・水戸市 茨城大学)

●歩兵第二十八旅団司令部(現・国立病院機構栃木医療センター)

●衛成病院(現・国立病院機構栃木医療センター)

●歩兵第十五連隊(現・高崎市 音楽センター)

●砲兵第十四大隊(現・水戸市 茨城大学)

●歩兵第五十九連隊(現・宇都宮市ポリテックセンター宇都宮市若草町)

●歩兵第六十六連隊(現・栃木県立中央女子高校―宇都宮市若草町)

●野砲兵第二十連隊(現・文星芸術大学付属高・中学校―宇都宮市睦町)

●騎兵第十八連隊(現・作新学院幼稚園―宇都宮一の沢町)

●輜重兵第十四大隊(現作新学院高等部敷地-宇都宮―の沢町)

●憲兵司令部(現栃木県公害研究所―宇都宮市桜2丁目)

●兵器廠・糧秣廠(現栃木県中央公園・県立博物館宇都宮市睦町)

●歩兵第二十七旅団司令部(水戸市・現茨城大学)

●歩兵第二連隊・工兵第十四大隊(水戸市・現茨城大学)

●歩兵第十五連隊(高崎市・現音楽センター)

 

●1919年(大正8年)4月 - シベリア出兵のため派遣、ハバロフスクに上陸、本隊はハバロフスクに駐留、水戸歩兵第二連隊 第三大隊がニコラフスクに派遣された。1920年(大正9年)5月 - ニコラエフスク守備の水戸歩兵第二連隊第三大隊が「尼港事件」に遭遇した、ニコラフスクで、赤軍ヴァルチザン4,000名が蜂起して日本人居留民及び駐留していた歩兵第二連隊第三大隊のほとんど全員が殺戮された。第十四師団本隊は大正9年8月帰還

 

●1925年(大正14年)3月 – 軍縮により宇都宮歩兵第六十六連隊が廃止、松本歩兵第五十連隊が第十四師団歩兵第二十八旅団の隷下となる。歩兵二十七旅団司令部が水戸から宇都宮へ、歩兵第二十八旅団司令部が宇都宮から高崎へ移動となる。

 

●1927年(昭和2年)4月 - 満州の旅順に出征する。1928年(昭和3年) - 青島、済南、旅順、奉天を転地、1929年(昭和4年) 帰還する。1932年(昭和7年)2月23日師団の満州移駐決定、3月動員令 関東軍隷下となり 第一次上海事変に参加。5月 満州事変が起こり北満に転戦する。水戸歩兵第二連隊二大隊は熱河作戦に就く。1934年(昭和9年) 2月作戦終了、第十四師団凱旋 師団戦死者 480名 師団編成平時編成に戻る

 

●1937年(昭和12年)8/14 宇都宮第十四師団に動員令 師団合計25,382名、8・26宇都宮出発、盧溝橋事件が起こり華北戦線に投入された9月4日 塘沽に上陸、第二連隊は保定会戦・山西作戦・徐州作戦・武漢攻略戦、永定河渡河作戦などに参加。1939年(昭和14年)9月26日 –師団に 復員下令、第二連隊水戸へ帰還 1940年(昭和15年)8月師団満州に永久駐屯決定、ハルピンに移駐。(歩兵第15連隊の補充隊として歩兵第百十五連隊が高崎で再招集され編成された) 9月ハンダガヤに移駐。

 

●1943年(昭和18年)南方へ転用、師団はパラオ諸島へ向かった。1944年(昭和19年)4月24日 - パラオに出兵した宇都宮第十四師団は、宇都宮歩兵第五十九連隊や高崎歩兵第十五連隊等の師団主力をパラオ本島のバベルダオブ島の守備におき、水戸歩兵第二連隊および高崎歩兵第十五連隊第三大隊等の守備隊(約10,000名)をペリリュー島に派遣、宇都宮歩兵第五十九連隊第一大隊(約1,200名)をアンガウル島に配備するがペリリュー・アンガウル配置の全軍は全滅。師団全体としても日本に帰還できたのは捕虜となった約500名だけだった(バベルダオブ島では交戦が無かった)

 

ペリリュー島の玉砕

 

1944年(昭和19年)4月24日 パラオに出兵した第十四師団のうち、宇都宮歩兵第五十九連隊と高崎歩兵第十五連隊等の師団主力はパラオ本島のバベルダオブ島に、水戸歩兵第二連隊および高崎歩兵第十五連隊第三大隊等の守備隊(約10,000名)はペリリュー島の守備に就いた。

 

1944年(昭和19年)9月 - 日本軍への作戦協力を申し出るペリリュー島の原住民約200名を、島外へと退避させる。9月15日 - 米軍第1海兵師団約28,000名がペリリュー島南西海岸からの上陸作戦を開始、守備隊の水戸歩兵第二連隊第二大隊約650名と高崎歩兵第十五連隊第三大隊約750名等が応戦する

 

9月16日 米軍がペリリュー島の飛行場設備を制圧、富田隊長および千明隊長が戦死。

 

9月22日 – 高崎歩兵第十五連隊第二大隊約1,200名がペリリュー島への敵前上陸を敢行、約500名がペリリュー島守備隊に合流する。

 

11月24日 - ペリリュー島の中川州男守備隊長(歩兵第二連隊長)が軍旗を奉焼して11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第二連隊長)は拳銃で自決。村井権治郎少将(第十四師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第十五連隊第二大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島はアメリカ軍の占領するところとなった。

 

ペリリュー島守備隊で日本に生還したのは34名だった、

 

ペリリュー島守備編成

 

編成地 連隊 部隊名 指揮官 守備地域
 水戸  歩兵第2連隊 中川州男大佐 歩兵第一大隊 市岡秀衛大尉 ペリリュー島反撃大隊
歩兵第二大隊 富岡保二少佐 ペリリュー島西地区隊
歩兵第三大隊 原田良男大尉 ペリリュー島東地区隊
砲兵大隊 小林与平少佐 ペリリュー島本隊直轄
工兵大隊 五十嵐貞重大尉 ペリリュー島本隊直轄
通信中隊 岡田和雄中尉 ペリリュー島本隊直轄
補給中隊 阿部善助中尉 ペリリュー島本隊直轄
衛生中隊 安島良三中尉 ペリリュー島本隊直轄
高崎 歩兵第15連隊 福井義介大佐 歩兵第二大隊 飯田義栄少佐 ぺリリュー島逆上陸
歩兵第三大隊 千秋武久大尉 ペリリュー島南地区隊
宇都宮 師団直轄 師団戦車隊 天野国臣大尉  
  独立混成53旅団 独立歩兵第346大隊 印野道廣少佐 ペリリュー島

第二連隊は宇都宮師団編成以前、明治7年東京鎮台(東京第一師団)第二連隊として宇都宮で編成され、その後水戸に在って第十四師団の基幹をなす由緒ある部隊だった

 

アンガウル島の玉砕

 

当時、日本軍によるパラオ防衛は第14師団(照兵団、宇都宮)が担当しており、アンガウル島防衛に当たっていたのは第14師団配下の宇都宮歩兵第59連隊であった。第14師団はペリリュー島守備のため1個連隊強(水戸歩兵第2連隊と高崎歩兵第15連隊第3大隊)を割いており、パラオの他の島嶼防衛も行わなければならなかった。そのため、1944年7月20日の照作戦命令甲第124号により、歩兵第59連隊はアンガウル島防衛に第1大隊を残しパラオ本島(バベルダオブ島)に引き上げていた。

 

アメリカ軍のパラオ侵攻が明白になると、日本側は在住の民間日本人と現地住民の老人と婦女子をアンガウル島からパラオ本島へ疎開させたが、青壮年は戦力として残留させたため残留住民は戦渦に巻き込まれることになった。

 

1944年9月11日、上陸前、アメリカ軍は侵攻前艦砲射撃を行った。この砲爆撃によって同島の日本軍の通信施設は破壊され、他の日本軍部隊との通信が不可能な状態に陥った。またペリリュー島の戦闘で支援や補給路も立たれる状態となり以後、日本軍歩兵第59連隊第一大隊は玉砕するまで孤立無援の戦闘を繰り広げることになった。

 

9月17日、米軍第81歩兵師団約21,000名がアンガウル島の北東及び南西の海岸への上陸作戦を開始、宇都宮歩兵第59連隊第1大隊等(後藤隊長配下の約1,200名)が応戦したが、アメリカ軍は同日夕方には内陸へ進出していた。

 

アンガウル守備隊は総力を挙げて夜襲を決行、翌9月18日の未暁アメリカ軍を一旦は海岸近くまで撃退したが夜が明けるとアメリカ軍は艦載機の援護の下にM4中戦車やLVTを前面にして反撃したため、午前10時頃には日本軍攻撃部隊は全滅、アメリカ軍は9月19日早朝に島の中心部サイパン村を制圧、間もなく占領した。日本守備隊はそのごこれ以降はゲリラ戦を展展開することになる。

 

アンガウル島守備隊は島東部の洞窟壕に籠りゲリラ戦で抵抗を続けたが、10月19日に後藤大隊長以下100名余が夜襲をかけて玉砕、守備隊は全滅した。

 

宇都宮に生還したのは約50名