Ⅴ 第四十一師団とニュージランドの戦い・竹永事件

●第四十一師団は、1939年(昭和14年)6月30日に中国で新設された。宇都宮師管区を補充区とする歩兵三個連隊編制師団である。

 

編成

第四十一歩兵団:歩兵二百十七連隊(水戸)歩兵第二百十八連隊(高崎)歩兵第二百三十九連隊(宇都宮)

 

●編成後、1938年(昭和14年)10月に中国北部に進駐、第一軍の指揮下に入って山西省方面の治安警備に当っていた。1942年(昭和17年)11月に、師団はニューギニアに転用されることになり、第八方面軍隷下の第18軍に編入された。先発隊の宇都宮歩兵第二百三十九連隊が1943年(昭和18年)2月下旬にニューギニアに進出し、師団主力も同年5月に東部ニューギニアのウェワクに進出した。

 

しかし、その頃既に第51師団はラエ・サラモアの戦いに敗れ、続いてフィンシュハーフェンの戦いで第20師団も大打撃を受け、第十八軍は壊滅状態となっていた。

 

●1944年(昭和19年)7月10日に、第四十一師団を主体とした残された第十八軍の全勢力を以ってアイタペの戦いを挑んだが敗走することになり、アレキサンダー山系にこもって飢餓との戦いを続けた。1944年後半にニューギニア戦線はそれまで主力だったアメリカ軍からオーストラリア軍が引き継ぐことになり、徹底的な掃討戦を開始した。日本軍は海上補給線断たれ、そのうえアイタペの戦いで最後の物資の多くを失い全くの戦力低下の状態となっていた。本来の戦時編制ならば2万人近くの師団編成は1945年5月上旬にはわずか1千人前後の壊滅状態となっていた。第18軍主力の食糧および医薬品は1945年9月末で尽き、兵器も年末には機能を失うと見られていた。7月には、1個軍の玉砕を根底に置いた、日本軍としても異例の軍命令(猛作命甲第371号)が発せられる極限状況だった。

 

宇都宮第二百三十九連隊と竹中事件 ―降伏か玉砕か―

 

竹永事件(たけながじけん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月3日に竹永正治中佐が率いる日本軍部隊が、東部ニューギニア(当時はオーストラリア領、現在のパプアニューギニア)でオーストラリア軍に集団降伏した出来事である。捕虜となることを極度に嫌った当時の日本軍において、きわめて珍しい組織的な降伏の事例だった。

 

1945年(昭和20年)3月から4月頃第四十一師団歩兵第二百三十九連隊は、アイタペ南東地区でオーストラリア軍と戦っていた。竹永正治中佐率いる同連隊第二大隊約50名は、3月24日から、東方へ敗走する第二百十九連隊主力に取り残された形となり、逆の西方へ移動を始めた。

 

(大隊の兵力は編成時500名から1000名であるが、竹永大隊はこの時既にほぼ壊滅状態であったとみられる。)

 

4月12日、約45人の竹永隊は、タウ村の付近にとどまったが、村民との抗争で2名の隊員が犠牲となった、4月16日村民からの通報でオーストラリア陸軍は、掃討作戦を展開4月24日竹永隊と接触して銃撃戦となり、大隊の2人が戦死した。

 

その後竹永隊は交戦をやめ投降することに決め、5月3日竹永隊はウォムグラー集落で降伏して武装解除されアイタペへと空輸された。このときの兵力は竹永中佐以下42人だった。

 

日本側の他の部隊は、竹永隊が道に迷うなどして行方不明になったと考えて捜索していたが、オーストラリア軍が撒布したプロパガンダビラによって、竹永隊の降伏を知った。

 

竹永隊が降伏を決意した過程については、隊員全員の意思確認が行われたとする説と、幹部のみで決断したとする説がある。

 

当時の日本では、戦陣訓に象徴されるように、敵軍の捕虜となることは甚だしく不名誉とみなされていた。陸軍刑法でも、司令官が部下を率いて降伏することを辱職罪とし、特に野戦では尽くすべきところを尽くした場合でも禁錮6月に処すると規定していた(41条)。安達二十三第18軍司令官も、1945年3月18日に、絶対に虜囚の辱めを受けるなとの命令を発していた。

 

部隊が投降したのは竹永隊以前に皆無というわけではなく、日露戦争の奉天会戦後1905年5月に、第1師団歩兵第49連隊の1個中隊(生存者42名)が丸ごと捕虜となった事例があった。8月15日の終戦の日まで東部ニューギニアでの戦闘を継続したが、竹永隊に代わって新たな人員で歩兵第239連隊第2大隊も再編成された、しかしこの再編された第二大隊も、終戦直前の8月に隷下のうち2個中隊が相次いでオーストラリア軍に集団投降している。オーストラリア軍の記録によると、8月10日に大尉以下13人、8月11日に大尉以下17人が投降した。原因はオーストラリア軍の投降勧誘のほか、竹永隊の前例に影響されたとも、死守命令がきっかけになったとも言われる。アイタペ戦後の第18軍将兵の生還率はわずか25%で、竹永隊の生還率84%(アイタペ戦の後の兵力50人中42人生還)を大きく下回った。

 

日本軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1952年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸軍刑法は、「降伏」に関して、その第3章に、「辱職ノ罪」を設け厳しく律していた。以下はその一部(全文は第四十条から第五十六条)

 

 

第三章 辱職ノ罪

第四十條 司令官其ノ盡スヘキ所ヲ盡サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキ ハ死刑ニ處ス

第四十一條 司令官野戰ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率ヰ敵ニ降リタルトキハ其ノ盡スヘキ所 ヲ盡シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ處ス

第四十二條 司令官敵前ニ於テ其ノ盡スヘキ所ヲ盡サスシテ隊兵ヲ率ヰ逃避シタルト キハ死刑ニ處ス

第四十三條 司令官軍隊ヲ率ヰ故ナク守地若ハ配置ノ地ニ就カス又ハ其ノ地ヲ離レタ ルトキハ左ノ區別ニ從テ處斷ス

 一 敵前ナルトキハ死刑ニ處ス

 二 戰時、軍中又ハ戒嚴地境ナルトキハ五年以上ノ有期禁錮ニ處ス

 三 其ノ他ノ場合ナルトキハ三年以下ノ禁錮ニ處ス

 

 

又敵前逃亡に関しても同様の制裁(海軍刑法も同様)が科せられていた。

 

 

第七章 逃亡ノ罪

第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以  下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十六条 党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス

 一 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑、無期若ハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ首魁ハ無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ首魁ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス

第七十八条 第七十五条第一号、第七十六条第一号及前条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

 

参考:ニューギニア島の地図