日本本土空襲のあらまし

日本本土初空襲

 

 日本本土がはじめて連合国によって空襲をうけることになったのは、1942年(昭和17年)4月18日のジミー・ドーリットル中佐に率いられた16機のB25爆撃機による、東京・川崎・神戸・四日市など軍事施設への空襲が初めてです(ドゥーリットル空襲)。

 

 太平洋上のアメリカ軍空母エンタープライズより発進したB25 爆撃機16機は、日本本土を爆撃した後に乗組員を中国に落下傘降下(パラシュート降下)させて機体は破棄してしまうという計画でした。しかしそのうち1機が故障し、途中で爆弾を投棄してロシア(当時ソ連)のウラジオストックに不時着することになったのですが、その途上で破棄するために投下した爆弾の一つが、西那須野駅前に着弾しました。(※那須塩原市の空襲参照)、それが栃木県内での始めての空爆体験となりました。

 

 アメリカは日本本土空襲を敢行するために、B25爆撃機の発進基地を中国奥地にある成都市(チョントウ)に設置して日本本土空襲をおこなっていたのですが、中国の奥地にある成都を発進基地とする空襲は、当時の使用機種だったB25爆撃機の性能の上で、飛行距離を伸ばすのには無理があり、空襲の範囲も北九州地区のみにとどまり、日本本土の広範囲にわたる空襲に関しては、期待した通りの成果が得られませんでした。そのため日本本土空襲は一時中断されます。B25は、飛行距離はもとより爆弾の搭載量も少なく、機体の事故も多かったという事情にもよるものと思われます。

 

B29爆撃機の開発

 

 そこで、日本本土空襲のためにより性能の良い機種の開発を進めることになり、巨額を投じてB29爆撃機が開発されました。


 B25爆撃機からB29爆撃機による攻撃に切り替わる1944年(昭和19年)6月の北九州、八幡製鉄所空襲までは、一時的に空爆は中断されていました。

 

 B29爆撃機による攻撃が始まっても、はじめのうちは飛行距離その他の事情から、中国奥地にある基地である四川省の「成都」からの発進なので、ほとんど九州地区の軍需工場への攻撃に限られていました。燃料となるガソリンや装備の品々などは、はるばるヒマラヤ山脈を越えてインドからの空輸に頼らなくてはならないという、B29にとって厳しい問題を抱えていたからです。


 一方、南方戦線での1943年2月に2万人とも言われる犠牲者をだして終結したガダルカナル島の戦いは、太平洋戦争での決選の場となりました。ガダルカナル戦での敗北によって、日本はその後の太平洋上での制空権・制海権を、連合国側にゆだねる事になったのです。 (※「米軍機による日本本土空襲」表 第1期参照)。

 

マリアナ作戦の展開~日本本土空襲へのみちすじ~

 

 1944年7月7日サイパン島の玉砕を皮切りに、8月3日テニアン島、8月12日グアム島が全滅し、マリアナ諸島がアメリカ軍の手中に落ちることになると、日本は南方においての制海権、制空権を全面的に連合国にわたすことになります。そして連合国のマリアナ諸島を基地とするB29による日本本土空襲「マリアナ作戦」が展開することになります。マリアナ諸島を基地にすることによって飛行距離が短縮され、B29による日本本土空襲はその展開が容易になったことになります。そして、空爆の対象はかなりの頻度で日本本土の軍需工場と航空機製造工場を徹底的に破壊する方向に向けられていきます。

 

 また、この頃までの空襲は、昼間の高高度精密爆撃(5,000メートル~7,000メートル上空)が中心でした。日本軍の高射砲による迎撃から航空機の被害と搭乗員の損失を出来るだけ少なくするためです。しかし、このころから1,530~2,400メートルでの低空飛行による空爆に切り替えたのです。戦略爆撃の項参照(※「米軍機による日本本土空襲」表 第2期)。

 

日本本土の大都市空襲の展開へ

 

 また、南太平洋での制空権を獲得したアメリカ軍のカーチス・ルメイ少将は、日本本土の焼夷弾による都市の無差別爆撃(都市爆撃・絨毯爆撃ともよばれる)によって日本本土を焼き尽くす焦土作戦を展開させました。B29の軽量化を進めると同時に焼夷弾・爆弾の搭載を増量して更により高い精度によって目標を破壊するため、飛行高度をこれまでの5,000~7,000メートルからの空爆から、1,500~2,400メートルの低空飛行に切り替えて空爆を実行しはじめたのです。

 

 アメリカ軍は1944年(昭和19年)11月12日、F13A(B29を写真撮影用に改良したもの)による東京偵察飛行が成功し、11月末までに日本本土全域にわたり7,000枚の空中写真撮影に成功しました。アメリカ軍はこの空中写真をもとに、日本本土都市空襲の計画を策定します。1944年(昭和19年)12月18日、日本本土の大都市空襲の前に、実験的に日本軍の占領下にあった中国の主要都市漢口(ハンコウ。現在の武漢市)空襲を実行に移し、漢口の街は50パーセント以上が焼失し壊滅してしまいました。アメリカ軍はその成果に基づき、3月10日の東京大空襲をはじめとし、12日に名古屋、13日に大阪と、次々と大都市空襲を展開していく事になったのです。

 

空襲の中小都市の空襲への移行

 

 1945年2月4日ヤルタ会談、5月7日ドイツ降伏と、世界情勢は大きく変化し、第2次世界大戦における欧州での戦争は一応の収束を見ることになります。それに合わせ連合国側は、5月8日に日本国に対し降伏勧告を発します。そして日本側の回答を待つため5月中旬から日本本土都市空襲を一時保留します。日本側は戦争遂行声明の形で降伏勧告の受け入れを拒否します。そのため、それまで保留されていた日本本土空襲の計画は再開されることになり、東京の中心部千代田区をはじめ新宿区・世田谷地区・横浜などの大空襲をはじめ、全国の中小都市群へと矛先が向けられるようになったのです。「米軍機による日本本土空襲」表 第3期)。

 

 6月に入り、大都市中心だった都市無差別爆撃の対象は、地方有力都市に向けられます。当初はアメリカ軍の『中小都市空襲目標地リスト』に上げられている都市の中の人口10万以上の軍事・軍需都市がその対象となりました。(※「米軍機による日本本土空襲」表 第4期

 

 7月に入ると、人口10万以下の中小都市も空襲の対象とされ、空爆を受けるようになります。当時人口87,868人(昭和20年7月1日)だった宇都宮もそこに含まれます(※「米軍機による日本本土空襲」表 第5期)。そして終戦までに全国で120以上の都市が灰燼に帰し、80万以上の尊い人命が空襲で失われるという悲惨な結末を迎えることになりました。(※「米軍機による日本本土空襲」表 第6期)。

 

日本の空襲による犠牲者

 

 日本の空襲による死者の数は45万名~100万名と様々な説があります。日本政府発表の太平洋戦争中(1941年~1945年)の犠牲者数は310万人、そのうち軍人・軍属の戦死者数は230万人とされています。非戦闘員である民間人の死者は80万人ということになりますが、そのうち沖縄県における犠牲者が約10万名、本土空襲による犠牲者は70万名ということになります。しかし、広島・長崎の原爆並びに東京大空襲ほか各都市の調査によって、空襲犠牲者の数は10万名以上増加しており、当ホームページ上では10万を加算して80万名以上と記録いたしました。