那須塩原市の空襲

黒磯市(東那須町・鍋掛村・高林村)・西那須野町(狩野村・西那須野町)・塩原町(塩原町・箒根村)≫

≪ ≫内の黒文字は、域内の昭和20年当時の市町村、紫字は20年以降( )内の市町村が合併して成立した市・町名


西那須野町の空襲

 

昭和17年4月8日

 

 アメリカ空母ホーネットを発信した、ジミー・ドゥ―リットル中佐率いるB25爆撃機16機編隊は、初の日本本土空襲を敢行し(ドゥ―リットル空襲)東京・川崎・横須賀・神戸・四日市の各都市を空襲しました。そのとき鹿島灘から本土に侵入したエドワード・ヨーク中尉の指揮する8番機が燃料不足におちいり、搭載爆弾を西那須野南町の西那須野駅から200メートル南東の地点(西那須野町南町2番地八木澤宅被爆)に爆弾を投下しました。さらに新潟県阿賀野川鉄橋付近に1個投下して日本海側に抜け、ロシア(旧ソ連)ウラジオストックに不時着しました。乗組員はソ連軍に抑留されましたが、その際の爆弾投下が(捨弾とみられる)県下初のアメリカ軍機の襲来となりました。

 

黒磯市の空襲

 

 那須野陸軍飛行場(通称黒磯飛行場、また黒磯町埼玉に所在していたため埼玉飛行場(さきたまひこうじょう)と呼ばれていました)は、昭和17年(1942年)宇都宮陸軍飛行学校那須野分教所として開校、18年宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊となり特攻隊訓練基地となりました。茨城県鉾田町(現・鉾田市)に在った鉾田(ほこた)教導飛行師団が、激化する日本本土空襲にともない、昭和20年2月11日には艦載機の空襲を受けました。また太平洋沿岸地域の艦砲射撃が激しくなる中で鉾田飛行場は、那須野陸軍飛行場に移転しました。

 

 昭和20年5月、特攻隊12隊を編成、7月には第26飛行隊の司令部が置かれました。昭和20年8月13日、特攻隊6機が出撃、うち2機がアメリカ軍空母に突入しました。これが太平洋戦争最後の特攻といわれています。(宇都宮師団の系譜参照)

 

 20年当時、大田原の金丸原飛行場(※大田原の空襲の項参照)との距離は飛行機で1分ほどの距離で、アメリカ軍機は埼玉飛行場と金丸原飛行場の区間を8の字に旋回しながら両飛行場をセットとして空襲を加えていました。

 

昭和20年7月10日

 

 房総沖の空母15隻を中心とするアメリカ第38機動部隊(第58機動部隊改称)の800機の艦載機が関東各地を攻撃しましたが、栃木県内にも4波に分かれて襲来しました。5インチ高性能ロケット弾・260ポンド破片爆弾・500ポンド汎用爆弾・および12.7ミリ機銃弾による攻撃を行いました。この日の空襲は足利市・宇都宮市・大田原市・さくら市・高根沢町・壬生町・真岡市など広範囲に及び、主に飛行場交通機関が攻撃の対象となりましたが、市街地の攻撃を受けた町もありました。4波の襲撃のうちの2波が那須飛行場を襲撃しています。

 

第1波 8機 260ポンド爆弾16個、500ポンド爆弾7個、ロケット弾24個

第2波 5機 陸軍那須野飛行場近辺で機銃掃射を行い5名の犠牲者を出しました。

 

昭和20年8月13日

 

第1波 3機 ロケット第12個

第2波 6機 500ポンド爆弾5個、ロケット弾24個

第3波 4機 500ポンド爆弾4個、ロケット弾24個

 

※なお、栃木県北部(那須地区)の空襲・戦災の詳細については 「那須の太平洋戦争」下野新聞社発行 北那須郷土史研究会編 1996年2月をごらんください。

 

もうひとつの戦災―塩原町の悲劇―

 

 塩原のまちには、忘れてはならない「もう一つの戦災」があります。東京養育院塩原分院の悲劇です。連合軍の空襲が激化するなかで、昭和19年から都市空襲疎開政策が始まりましたが、東京板橋の養育院の疎開先だった塩原町で、施設が閉園するまでの間に、581名もの施設入園者が餓死したという事件です。終戦の8月15日まででも303名の入園者がなくなっています。

 

 東京養育院は、身寄りのない人たちの施設です。1944年(昭和19年)塩原町の5カ所の旅館を借り受けて分院を開圓しました、常時施設入園者約700名、職員とその家族約90名が在所していました。東京板橋に在った東京市立養育院と同院の安房分院の入圓者が疎開していました。(千葉県館山の安房分院は虚弱児を収容する養護施設で、軍部の施設として接収されることになり、昭和20年2月28日に入園者と職員らを含め250名近くが塩原分院に移動しています。当時の記録によれば入圓児180名のうち117名が栄養失調に罹り22名が歩行不良だったと記録されています。)

 

 当時は戦時下に在って塩原町は温泉町としての機能は停止していました。そして東京市内の多くの学童疎開児童を受け入れていました。栃木県内には東京市の19,647名の学童が疎開してきていましたが、そのうちの約4,200人が塩原町に疎開してきていました。他に学習院小等部・中等部の女子生徒ら240名が旅館に分散疎開していました。厳しい食糧事情のなか、通常でも食糧補給の困難な時期に、緊迫した情勢のなか、行政の適切な支援も受けられず、また支援を受ける家族にも恵まれず、人口4,000名弱の山あいのこの地での自給の生活は困難をきわめ、多くの入園者が餓死していったのです。

 

●養育院の記録には疎開の状況について昭和20年5月の養育院の記録には次のように記録されています。

病者50、罹災者・不具廃疾者・精神衰弱186、学童30、乳幼児・病児・虚弱児97、島嶼疎開者88、職員及び家族90 (施設には身寄りのない高齢者、病者、心身障碍者、孤児たちが収容されていました)

 

●塩原分院での死者は次のように記録されています。

昭和20年5月44名、6月41名、7月43名、8月56名、9月39名、10月32名、昭和19年度に38名、20年度には316名もの入圓者が亡くなりました。

なお東京市養育院本院に残留していた施設入園者のうち107名が、昭和20年4月13日の板橋空襲(城北大空襲)の犠牲になりました。