足利市の空襲

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≪ ≫内の黒文字は、昭和20年当時の域内の市町村

 

昭和20年2月10日


 アメリカ陸軍航空軍ハンセル司令官は、1944年(昭和19年)12月3日、群馬県太田市の中島飛行機太田製作所に対する大規模な昼間爆撃を計画するのですが、悪天候に阻まれ実行できず、2ヵ月後の昭和20年2月10日、B29爆撃機 118機(実戦参加は84機。アメリカ軍発表)による空爆を敢行しました。(※表・米軍機による日本本土空襲 第2期)当日の空爆では、中島飛行機製作所を中心に152人の死者、負傷者187人を出しました。


 同日足利市の百頭町も午後3時過ぎに空爆を受け、百頭新田耕地を中心に死者33名、100名を越す負傷者を出すという大きな被害をもたらしました。当日の空襲について、アメリカ陸軍航空軍は、中島飛行機太田製作所に対しB29爆撃機84機が、高度28,300フィート(約8,200メートル)上空から高性能爆弾748発(187トン)と焼夷弾198発(約50トン)を投下(第20航空軍司令部作成記録による)と記録しています。この空襲で太田製作所では従業員126名の死傷者を出し、「疾風」74機が破壊されましたが、B29爆撃機2機の撃墜も目撃されておりアメリカ側も109人の死傷者を出しています。

 

 百頭町の空襲は、中島飛行機太田製作所空爆の余波と見られていますが、明確な理由はわかっていません。8,000メートル高度からのこの日の空爆は、その目標命中精度がきわめて劣悪(命中率10パーセントと報告されている。米軍資料)だったとされていますが、その上その日の太田市付近の上空は西方からの強風が吹きすさんでいて、その影響で投下目標への集中的攻撃の計画が分散し、爆弾等の投下の範囲が広範囲に及んだと考えられています。これらの影響については、当日の空襲で太田製作所から東方の地域(群馬県休泊村(現太田市)、矢場川村(現太田市・当時足利市)、高島村(邑楽町)、渡瀬村(現館林市)、伊奈良村(現板倉町)の広範囲が被弾していることから裏づけられるとされ、一般的に誤爆説とする見解が有力です。

 

昭和20年2月26日


 アメリカ軍艦載機による関東地方の軍事施設攻撃の際、群馬県太田製作所も45機のグラマンF6及びカーチスSB2Cの攻撃を受け42人の犠牲者を出しました。そのとき足利市上空で日米両軍機による空中戦が展開し、カーチス機一機が撃墜され足利市田中二丁目に墜落し民家の一部が破損しました。(日本機も1機墜落)


昭和20年4月2日


 4月2日未明、B29爆撃機61機(米軍資料による)は、太田製作所・小泉製作所と太田市街地を攻撃し、122名の死者を出しましたが、この空襲のさい足利市名草の大阪部落に約48発の時限爆弾が投下されたと記録されています。幸い死傷者は無く住宅の被害も全くなく山林火災を招いただけだったと記録されています。(「近代足利市史第三巻通史編 近代・現代昭和五十三年一月二十日足利市史編さん委員会編」所載記事) 但し、着弾の目撃証言は無く、また着弾の爆弾が時限爆弾だったという説も疑問とする見解が出されています。


昭和20年7月10日


 アメリカ軍艦載機による空襲により足利市川崎町で、死者3名、負傷者3名(うち1名は18日に死去)を出しました。房総沖の空母15隻を中心とするアメリカ第38機動部隊(第58機動部隊改称)の800機の艦載機大編隊が関東各地を攻撃しましたが、栃木県内にも4波に分かれて襲来しました。5インチ高性能ロケット弾・260ポンド破片爆弾・500ポンド汎用爆弾・および12.7ミリ機銃弾による攻撃を行いました。この日の空襲は栃木県全域にかけて、宇都宮市、大田原市,さくら市、高根沢町 壬生町、真岡市など主として飛行場と交通機関を狙った攻撃が加えられました。足利市の空襲もこの編隊の一派による攻撃と考えられています。

 

昭和20年8月14日


 23時5分、B29爆撃機約60機の編隊が東毛地区(伊勢崎、高崎、太田)を空襲、 足利市も本城一丁目二丁目地内で民家9戸が全焼し死者6名負傷者若干名を出しました。朝倉町一帯、山辺小学校東側、五合山付近にも焼夷弾が投下されましたが死傷者及び家屋の焼失はありませんでした。