鹿沼市の空襲

鹿沼町・菊沢村・東大芦村・北押原村・板荷村・西大芦村・加蘇村・北犬飼村・南摩村・南押原村・粟野町(粟野村・永野村・清洲村)

≪ ≫内の黒文字は、域内の昭和20年当時の市町村、紫字は20年以降( )内の市町村が合併して成立した市・町名


昭和20年7月12日

 マリアナ基地を発進したアメリカ軍爆撃機は、7月12日11時20分頃から13日一時20分頃にかけて宇都宮市を空襲し(宇都宮の空襲参照)、大きな被害をもたらしました。

 

 鹿沼市がなぜ空襲を受けたのかということに関しては誤爆説、臨機説などがあります。

 

 アメリカ軍は日本本土都市空襲に関して、日本全体の都市をそれぞれの都市の重要性や規模の上から分析し、「中小都市空襲目標都市リスト」として180の都市に順位をつけて列挙しています。宇都宮はその中の55番目であたります。また、県内の他都市では、足利108番目、栃木166番目に上げられていますが、鹿沼市はそのリストの中に含まれていません、このことは鹿沼市がアメリカ軍の計画的な都市空襲の対象ではなかったということを意味します。

 

 それでは、帝国繊維など工場を標的として空爆したかという説については、当時の軍事施設・軍需工場に対する戦略爆撃は、目標に対する確実な攻撃実績を確認するため、昼間に行われており、また当日は夜間でもあり、当地区上空の気象状況が極度に悪条件下にあり、上空の風速も270度40ノットと報告され、「爆撃時の目標の確認やレーダーによる攻撃精度が著しく損なわれた」(アメリカ軍発表)という事実からみても、工場に目標設定をして空爆する事はかなり困難な情況だったと考えられます。

 

 鹿島灘から進入し宇都宮上空に達したB29爆撃機群は、帰路を鹿沼市市外の北部をかすめ古賀志山周辺で旋回し機首を西方に向け茨城北部海岸から帰還するコースをたどります。そのため、投下の際の何らかの機器のトラブルで落下の滞った焼夷弾が時間差で落下した可能性、また、余剰の焼夷弾を投下させ偶然帝國製麻近辺に落下した可能性も否定できません。

 

 宇都宮に襲来したB29爆撃機133機のうち11機は先導機ですが、先導機の役割は目標付近に破壊力の強烈なM47焼夷弾を投下して、火災を発生させることにあります。その炎を目安として後続機が集束焼夷弾を投下するという戦法をとっています

 

 鹿沼市山中でこのM47焼夷弾の殻が発見され(明治大学平和教育登戸平和資料館所蔵)ましたが、この誤投下されたM47焼夷弾の発火を目安として投下した油脂焼夷弾が、帝国繊維界隈に流れたものと指摘する説もあります(※焼夷弾または爆弾が岩山近辺に投下されたという市民の目撃証言があります)

 

 市民らの目撃証言中、照明弾投下とあるのは、集束焼夷弾が空中で炸裂するさいに発する光だと考えられます。落下傘が降下したという証言については、集束焼夷弾の中にはM46 油脂焼夷弾が36発~38発内蔵されていて、集束焼夷弾が炸裂して内蔵のM46油脂焼夷弾(通称・子爆弾)が四散するのですが、M46焼夷弾には白くて長い帯状の布がついていて(焼夷弾の落下姿勢をコントロールするためのもの)、あるいはそれが空中で剥離落下していたのが落下傘に見えたのではないかと考えられます。


 鹿沼市に投下されたM46油脂焼夷弾は 1.500個、焼失家屋257戸、罹災者2.490人となっています。


区分 全市 被害 被害の割合
面積 2,915,000坪

18,500坪

0.64%
人口

32,037人

2,490人

7.8%
戸数
6,447戸
257戸
4.0%
投下弾
死傷者
大型
小型

死者

重傷 軽傷
行方不明

1,500


26

 

被害を受けた主な公共建物

 被害を受けた地区内には公共用建物はなかったが、主な建物の被害は下記の通りです。

 

(イ) 日本造機株式会社(皇国第1.4311工場)工場2棟(120坪1棟全焼 120坪1棟半焼)

(ロ)帝国繊維株式会社(皇国第821工場)厚生施設8棟(食堂1棟、寄宿舎7棟)『戦災復興誌第四巻都市編Ⅰ』

 

 『鹿沼市史 後編』(鹿沼市昭和433月1日発行)には、被害状況が次のように記載されています。

 

焼失した家屋総数256戸(泉町113戸、戸張町72戸、文化橋町43戸、下府所西町22戸、下府所東町6戸)死者9名 重症4名人 軽症14名

 

※記載投下弾数のうち大型(M47)は1個、小型はM46 油脂焼夷弾のことです。死者数は最終的に鹿沼市役所が公表した数は9人となります